小六の娘が社会科の勉強ということで、おばあちゃん(私の母親)にインタビューを試みていました。「第二次世界大戦の頃の生活の様子や学校の様子を話してください。」と。自分に、祖父母や父母からそんな形で戦争体験を聞いた記憶もなかったので、このごろの学校現場はなかなか粋((いき)なことをやるなと興味深く聞き耳を立てました。
ところが最初から、かみ合っていないのか話が先に進みません。「大東亜戦争のことだよ。」と私が口を挟むと、「そうそう、大東亜戦争と言っていた。」とうなずきながら堰(せき)を切ったように当時の様子を話し始めました。「小学校から女学校にあがったと思ったら、四年間ずーっと学徒動員といって、同級生全員寮生活しながら工場で働いた。川棚では、魚雷を作っていたのかなあ…。」「カワタナってどんな字、どこにある…の。」「シラミがわいて大変で、洋服ごと熱湯で煮込んだり…」「シラミがわいて…」「空襲警報で、防空壕の中に避難したときは恐ろしくて歯の根が合わなくてがたがた震えが止まらなかった。」「クウシュウケイホウって、ボウクウゴウって?」
メモを取りながら、娘の質問が繰り返され、戦争体験が伝わって行く。考えてみたら、娘の年齢の一年後、母たちは訳も分からないまま戦争にかり出されている。一番多感な少女時代を戦争一色で過ごしたわけである。せめてその体験だけでも聞くのが礼儀であろうが、大東亜戦争という言葉を失ったために、接点を失ない、戦争の悲惨(実態)を、事実を、見聞する機会を逸してしまった。
太平洋戦争と名付けられ第二次世界大戦の一部に組み込まれたのは、戦後の解釈である。歴史を眺めると、いつも敗戦国が悪くて、戦勝国にとっては正しい戦争だ。悪かったのは日本で、アメリカは正しかったのでしょうか。
戦争そのものが間違っているということを学ばずして、いまだに正しい戦争があるかのような風潮はいかがなものでしょう。
大東亜戦争が六十周年を迎え、まさに暦が一巡りした。今一度考えてみたい。