うず潮目次 前のページ 次のページ
16 2002/1/22 人間性の陶冶

 「陶冶」は「とうや」と読む。陶器をつくることと、鋳物(いもの)を鋳(い)ることから、人間の持って生れた性質を円満完全に発達させること。
 私の記憶によると、三十年前のわが母校島原高校の教室には、目標として三項目ほどの言葉を並べた額縁が掲げてあり、その一行目にこの言葉「人間性の陶冶」が書かれてあった。 
 私たちの担任は生活指導担当の厳しい先生で、不良学生どもはその鋭い眼光を恐れて「マムシの哲(てつ)」とあだ名していた。哲先生がこの言葉を指さして「なんと読むか?」とクラスの生徒に問うた。誰も答える者はいなかった。読めないのだからもちろん意味も分からない。
 「昨日教えた助動詞の活用をもう忘れたか!」といういつもの調子で「こんな字も読めんのか!」とカミナリを覚悟した。ところが哲先生は、私たちの無知を責めもせず、嘆きもせず、陶芸家が粘土をじっくりこね回すような手ぶりを加えながら、手の中に出来上がりつつある器をいつくしむように、目を細め優しいまなざしで言葉の意味を説明なさった。このときの哲先生の目はマムシではなく、ホトケだった。
 二十年後(十年前)届いた同窓会誌(文集)にやたらに「文武両道の伝統」という言葉が並んでいて変だなと感じた。文集原稿の依頼文中に「先輩方の伝統を引き継ぎ、文武両道の校是を守り…」などとあり、それに誘導されたOB諸氏の思い違いであると判明した。
 「文武両道」を悪く言う気はないが、部活にハマって赤点を取った学生を叱咤(しった)激励するのによく使われた言葉だ。それから十年、わが母校の教育理念はいつの間にか「文武両道」になってしまった。誰でも読めて意味も分かるが何か物足りない気がする。
 健全な肉体を極限まで追い込んで、受験勉強に励む後輩諸君に、「受験は最終目標ではなく、より素晴らしい人間になるためのプロセスの一つだよ。」と、訴えておきたい。哲先生なら何と言っただろうか。